現代文  

「主張」と「論理」が命!

  この科目、現代日本語で書かれた文章の読解を主眼としていることから「現代文」「現代国語」などと呼ばれています。文章読解とは具体的にはどういう作業か?課題文を読み、あることを解き明かす(=理解する=把握する)という作業です。では、その「あること」とは何か?つまるところは、その文章のエッセンス(=本質=不可欠な要素)です。たとえ他のことが分かったとしても、コイツを把握することができなかったらこの文章を読んだ意味がない……そう言えるような、その文章の「命」ともいえるような要素。すなわち、筆者の「イイタイコト」「意見」「考え」「主張」です。
  「現代文の原理原則は主張把握にアリ!」まずはこう覚えておいてください。現代文はその大半が複数の傍線部問題によって構成されています。その場合、正解の選択肢や解答文は、筆者の主張の再現になっているのです。だから、現代文を得意科目にするということは、高い主張把握能力を養成するということに他なりません。
  主張は繰り返されます。なぜなら、筆者の側にも自説を私たち読者に伝えるためにその文章を書いているという自覚があり、その自説を読者に確実に理解させるためには、一度述べただけで終わりにするのではなく、どんどん噛み砕いて行く(=より分かりやすい言い方に直して行く)のが最も有効であるという認識があるからです。そうでなくとも、そもそも評論文の筆者の多くは学者です。自ずと話題は、彼ら・彼女らの研究分野に関する学問レベルの内容になります。一方、読者のほとんどは一般人……。学問の素人に対してその道の専門家自説を説き、しかもその内容を確実に理解させようというのですから、目的を達成させるには懇切丁寧に、噛んで含ませるようにして言い換えてやるしかないわけです。主張が繰り返されるというのは、こういうことです。
  したがって、「ココとココとでは表現の仕方は違うけれども、実は同じ内容を繰り返しているに過ぎないのだ」と見抜けるようになりさえすれば、あなたの正答率は飛躍的に上昇します。現代文学習の「はじめの一歩」として、まずはこのことを強く意識しておいてください。
  主張把握と並んで欠かせないのが、論理性(=因果関係)です。現代文で用いられている課題文の大半は評論文。評論文の書き手の多くが学者(=どこかの大学の先生)です。さらに、その評論文を入試の課題文として選び出し、設問を付して入試問題に仕立て上げた人(=作問者)、これもまた学者(=入試を実施している大学の先生)です。学者の主な仕事は、大量の論文を読み、自らも論文を書いて学会に発表することです。以上のことから分かるのは、課題文の筆者と作問者、そのどちらもが論理性を重んじている人々だということです。つまり、正解は筆者の主張を再現した内容になりますが、主張を再現しさえすれば満点をもらえるかといえばそうではない。なぜ筆者はそのように主張するのか、なぜ筆者の主張するようなことが成り立つのかという「根拠理由」「原因理由」を押さえる必要もあるわけです。それができてこそ、筆者の主張の論理的説明が初めて可能となるのです。
  「主張」と「論理」、この二つが現代文の解答の構成要素です。
 
「近目」と「遠目」

  「主張」と「論理」とを正確に把握すること、そして、その内容を作問者があなたに期待している形で再現する(=模範解答文を自力で作成する)こと。KOTOBA塾は、これら二つの作業を完璧にこなす能力を養成するためのパーソナル・トレーニングルームです。そこで大事なのが、これまた二つの視点を身に付けることです。
  一つ目の視点、それは「近目」、すなわち、傍線部と直接つながっている文脈(=傍線部近辺に記されている関連情報たち)をもれなく拾って行く視点です。あなたがこれまで解いてきた現代文の問題を思い出してみてください。正解の内容が傍線部の近辺から取れることが多くありませんでしたか?なぜ、そんなことがちょくちょく起きるのか。その文章が形式段落というものを用いて書かれているからです。形式段落、つまり、「行を改め、一マス空けてから書き始める……」と言う時のあの「段落」というやつです。一つの形式段落で扱われている話題・内容は一種類です。これは、誰もが小学校で習った文章作法です。課題文の筆者もまた、この文章作法に従ってその文章を書いています。言い換えれば、ある一つの形式段落に書かれてある複数の文は、そのどれもが、共通するある一つの話題に関する情報を示しているということです。そして評論文の筆者(=学者)は、そのある一つの話題について、論理的に突きつめて考察したり説明したりしようとします。一つの話題について「突きつめて」考えたり説明したりすれば、その一つの話題についてイイタイコト(=主張)は半ば必然的に、ある一つの方向にまとまってしまわざるを得なくなります。上に述べた「正解の内容が傍線部の近辺から取れることが多い」という事実は、実はこのことと密接に関係しているのです。同一段落内に記されている内容は、いずれも同一の話題についての情報である。そして、その話題について筆者が言いたがっている内容はある一つの方向を示している。これら二つのことが両立しているとすれば、同一段落内に同居している複数の文の内容は、「繰り返し」あるいはそれに近い関係にあると推し量ることが可能となってきます。傍線部の近場で正解の内容が取れるということは、その傍線部を含んでいる形式段落が今述べてきたようなからくりで成り立っていることを物語っているのです。形式段落という単位にこだわって読むことが、現代文上達の秘訣です。
  次に、文章読解には大事な視点がもう一つあります。それは「伏線」という、書き手が用いるテクニックです。「伏線」とは、後で述べる主張をそことは離れた箇所で前もってほのめかしておく(=それとなく触れておく)ことを指します。現代文に出て来る課題文では、必ずといってよいほど伏線が成り立っています。そして、傍線部(=設問部)が伏線に関わっていることが多い。つまり、傍線部が、前もってほのめかしている箇所であるか、前もってほのめかされていた内容が再び出て来た箇所であるか、そのどちらかであることが多い。その場合は、傍線部の近場(=同一段落内)で解答要素が全部手に入れられる……というわけには行かなくなります。傍線部のカウンターパート(=対応箇所)が重要な解答要素になるのです。
  以上をまとめていうと、現代文では、傍線部の同一段落内に神経を払う「近目」と、傍線部と伏線的に関わっている箇所を解答要素として組み込む「遠目」との両方を常に意識しながら読むという、立体的なアプローチが求められているわけです。
 
「近代」は評論文のターゲット!

  現在書かれている評論文の大半は、現代思想の知見を踏まえて書かれています。したがって、現代思想が今日までたどって来た大まかな方向を知っていると、評論文はとても読み易くなります。課題文を読むのにかかる時間を短縮させることが可能になる(=読むスピードをアップさせることができる)のです。これは、書き手が立脚している視点を自分もあらかじめ共有しておくということなのですから、当然といえば当然でしょう。KOTOBA塾の現代文講座では、この点にも万全を期した指導を行います。
  現代思想は近代思想を批判するという形で始まりました。このような行為を「近代批判」といいます。近代批判とは、近代、特に近代文明の本家本元である西欧近代(=西ヨーロッパの近代文明)において自明視(=当然視)されて来た数々の近代的発想・近代的手法を相対化する(=絶対視することをやめる)ことを人々に促す、という目的で物事を論じる行為であると理解しておけばよいでしょう。
  西欧近代が生み出した発想や手法は、偉大で優れたものであった反面、今やそれらを相対化する必要性を広く世の中に訴えなければならないと筆者たちを駆り立てる程、現代社会のあり方にマイナスの影響をも強く与え続けているということです。近代という文明・時代や、それが生み出した発想・手法、それらを筆者が直接名指しして批判するとは限りません。しかしそういう場合でも、論じている彼ら・彼女らの頭の中には、そうした発想・手法がはっきりと意識されているわけです。そして、それらのどういう点がいかなる理由で今や「賞味期限切れ」であると言わざるを得ないのか、このことを現代社会が置かれている現実と照らし合わせながら説得力を持たせて説明しようと試みているのです。「個人」「自我」「アイデンティティー」「国民国家」「ナショナリズム」「資本主義」「産業社会」「ブルジョワジー」「市民社会」「文明」「未開」「進歩」「コミュニティー(共同体)」「科学技術」「普遍」「絶対性」「二元論」……etc. 以上は「近代」を強く暗示する言葉たちであり、こうしたワードを見ただけで筆者の意図が近代批判にあることを見抜けるようになれば、現代文は最早あなたの「お得意様」科目です。筆者がこれからどのような方向の主張を示してくるのかを、かなり正確に予想できてしまうからです。自分でもビックリするような高偏差値に手が届くでしょう。実際に、過去の教え子たちがそれを証明しています。彼ら・彼女らは、初めは特に秀でた優等生でも何でもありませんでした。ごくごく普通の、むしろ現代文を苦手としている人々でした。そうした人々にできてあなたにできないという理由はない。彼ら・彼女らには、「このままではいたくない」という強い思いと、一歩を踏み出す勇気があっただけです。次はあなたの番です!